« 何かの祟りか | メイン | さみしい誕生日 »

なぜDNA鑑定をしない!

 どうしてこうなんだろう、日本の司法にはもうげんなりだ。
 2月13日、90年に足利で起こった幼時殺害事件、いわゆる「足利事件」で、無罪を主張して再審請求をしていた無期懲役の受刑者に対し、裁判所がこれを棄却した。棄却ってことは、無罪を主張しても裁判所は聞きませんよ、そのまま刑務所にいなさい、ということ。
 私はこの事件に対し少なからず注目していた。理由のひとつは、現場が私の実家に近いからだ。
 いや、この事件の現場だけ、というわけではない。
 今回の現場である足利だけでなく、栃木・群馬県境ではこの20年の間で6人もの幼い女児の殺害・失踪の事件が起こっているのだ。多くは未解決、手口も酷似しているものもある。その中には今回再審を棄却された受刑者が逮捕された後に起きているものもあるのだ。どうなっているんだ。
 だが、一審、二審、最高裁と有罪判決。
 この受刑者が一旦は自白したというが、その供述に基づいた状況も不自然な点が多いという。犯行の時間帯、現場近くにいた人(それも受刑者を知っている)が、何も目撃していなかったり、被害者の身内までも首を傾げるような自転車での川原への移動などなど。
 しかし、一旦自供してしまうと裁判での逆転は難しい。
「やってもいないことを自白するのはおかしい」と多くの人は思うだろうが、実際はそんなにおかしなことではない。私もかつて東京地検特捜部から事情聴取をされた経験からも断言できる。最近続発しているチカン冤罪についても同様だ。
 長時間の過酷な取調べの末、「罪を認めればすぐに帰してやる。家族も心配している」など甘言を囁かれ「楽になりたい。仕方ない。警察に認めても、裁判ではきちんと無罪だとわかってもらえる」なんて思ってしまうのだ。しかし決してそんなことはない。
 裁判所は正義の味方ではないからだ。
 そのことが今回の再審棄却に如実に現れている。
 今回の再審請求で注目されたのがDNA鑑定。今でこそスタンダードとなったこの言葉だが、当時は導入初期の時期であり、この鑑定結果が「足利事件」裁判での有罪を決定的にした。でも、当時は「一致する確率は1000人あたり1ー2人の頻度」だという。
 へっ、これってかなり確率悪くないか? 人口10万人として100人から200人も一致してしまう!
 だから弁護側はDNA鑑定の信用性を争った。当時よりも精密、正確になり「低くても32兆人に1人の割合」という現在のDNA鑑定で鑑定しなおした。そしたら、「犯人のDNA型と一致しない可能性がある」との結果を得て新証拠にした。
 しかしーー。 
 裁判所は「鑑定に使った毛髪が受刑者のものである証明がない。(弁護側が行った)写真を使った分析手法は、そもそも意味をなさない」だとさ! けんもほろろ、門前払い。
 とはいえ、私はこの受刑者が無罪だという確信を持っているわけではない。
 しかし、少しでも冤罪の疑いがあるなら裁判所が指揮してDNA鑑定くらいしろ、と言いたいのだ。普通に考えれば簡単なことだ。しかしそんな簡単なことが出来ないのが現在の法律・司法制度なのだろう。
 DNA鑑定に疑惑をもたれたのなら、再鑑定すればいい。検察も有罪だと自信があるなら、再鑑定させるくらいへっちゃらだろう。それとも本当は自信がないのか?
 現在ではかなり手軽になったDNA鑑定ひとつで、1人の人間の運命が変わる。冤罪が晴れるかもしれない。誰にも文句のいわれない有罪が確定するかもしれない。
 しかし、それさえも拒絶する裁判所。真実を闇に葬るつもりなのか、裁判所や検察のメンツを守るためなのか。この鑑定が間違いだったら、他にも同じような事案があって、大変なことになる、と思っているのかも。
 そう考えると、やはりメンツの問題だな。国民の人生や命よりも、自分たちの失敗を隠蔽しようとするのが、日本の官僚なのだと改めて怒っちゃったよ。
 

トラックバック (0)

トラックバックURL: